銭形平次捕物全集

銭形平次捕物控を収録した全集や作品集について:

 銭形平次捕物控の短編は、1編だけで単行本にするには短かすぎ、パンフレットのような薄い本になってしまうので、数編まとめられて単行本にされるのが常でした。このため、いくつかの作品を集めた作品集のような本は非常に多く出版されています。しかしながら20編以上を集めたものは意外に少ないのです。全集は、まだ野村胡堂が執筆を続けている時期に出版された同光社磯部書房版と、銭形平次の筆が置かれた直後に完結した河出書房版の2種類しかありません。80話以上収録しているのは文庫本で、角川文庫、新潮文庫、富士見書房の時代小説文庫、嶋中文庫だけです。
 ただし、昭和25年ごろにはさまざまな作家の作品を集めた全集ブームの時期があり、何冊かの作品集がでています。ここで、これらの書物を採り上げたのは、同光社版や河出書房万全集の中では、かなり多数の作品の初出が不明であるにもかかわらず、全集が作れた理由を示唆しているように思われるからです。下表にその収録作品をまとめましたが、本ごとに差異や共通点があって、面白い結果が出たように思います。

銭形平次捕物控全集・作品集比較

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河出書房「錢形平次捕物全集」(第1巻発行=昭和31年5月5日)
 この全集は昭和31年5月5日から昭和33年1月31日にかけて全26巻が刊行されました。この全集は、昭和31年春の発刊当初の予定では全24巻で、月に2巻という驚異的な頻度で発行が行われていて、河出書房がかなりの編集人員を割き、力を入れていたことが分かります。ところが、この全集が出始めてから完結するまでの18ヶ月の間には、予期せぬ二つの大きな出来事が起きました。
 その一つは第22巻の発行(昭和32年3月25日)が行われた直後に、河出書房は倒産してしまったのです。当然、全集は未完結のまま発行が途絶え、野村胡堂には最初の3巻分の印税しか支払われなかったと伝えられています。(藤倉四郎著「バッハから銭形平次」)河出書房新社が作られて続編である第23巻が発行されたのは昭和32年の10月31日でした。
 もう一つの大きな出来事は、河出書房版全集の発行が途絶えていた間の昭和32年8月に起りました。作者の野村胡堂がオール讀物と家の光の2誌への連載を、8月号限りで取りやめたのです。これは非常に奇妙な偶然なのですが、もし河出書房の経営が傾かなかったら、昭和32年の4月頃には24巻が発行されていたはずで、野村胡堂が執筆を続けている最中に全集は完結したことになったと思われます。しかし、倒産から再建までの中断期に野村胡堂は銭形平次の筆を置いたので、結果的に河出書房新社になって発刊が再開された全集は、銭形平次捕物控をすべて網羅する全26巻の構成となったのです。銭形平次捕物控全383編を収録する全集は、この河出書房・河出書房新社版だけです。
 同光社版の旧字旧かな遣いで表記された全集を新字新かな遣いに改めると共に、同光社版で推定された初出年代順に作品を収録して発刊するという企画で本作りが行われました。底本に同光社版全集を用いていることは、両者を比べると歴然としています。

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同光社「錢形平次捕物全集」(第1巻発行=昭和28年3月25日)
 50巻および随筆等を収録した別巻1冊からなる全集です。当初の版元は「同光社磯部書房」ですが、昭和28年11月15日に第20巻が発行された後に同社は倒産し、再建された同光社から第21巻が発行されたのは昭和29年2月15日で約3ヶ月のブランクがあります。最後の第50巻ではオール讀物昭和30年6月号まで収録されています。同光社版の全集が完結した以降も、野村胡堂は銭形平次の執筆を続けましたので、全作品を網羅しているわけではありません。なお、戦後、特に新聞に連載された作品の中には新字新かな遣いで掲載されたものもあるのですが、同光社版ではこれらも旧字旧かなに直して掲載しています。それを再び河出書房版では新字新かなに直しているのですが、2回の置き換え作業の結果、同じ新字新かなでありながら初出紙と河出書房万全集の内容とは微妙な差異が生じています。青空文庫で公開されている旧字旧かなの銭形平次捕物控は、この同光社版全集を底本としています。
 同光社版全集に雑誌や単行本に掲載された銭形平次捕物控の諸作品が収録された際に、大きな改変が施されていることが一つあります。それは各作品の章立ての見出しです。長編を除けば、単に「一二三…」の数字になっていますが、雑誌に掲載された当時は、大半の作品は数字ではなく、文章による見出しでした。例えば、第1作の「金色の処女」の各章は、「将軍に毒矢」「御薬園の秘密」「お静危機」「天井の密室」「裸身の乙女に金箔」「妖婦の手から薬湯」「必死の投げ銭」「危機一髪」「黒彌撒」という見出しでしたが、これを数字に改めたのです。河出書房版全集でもこれを引き継いで章の見出しは数字になっています。

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中央公論社「錢形平次捕物百話」(第1巻発行=昭和13年11月1日)
 銭形平次捕物控がオール讀物で連載されているときに、中央公論社が企画した全集でした。第1巻が発行された当初は全部で8巻で完結する予定で発行が始まりましたが、結果的には8巻では収まりきれずに全9巻となりました。
 この本が極めて特異なのは、まだ第81話の受難の通人までしかオール讀物では発表されていなかった時点で、第82話の「お局お六」から第100話の「ガラッ八祝言」までを「新編書卸し」(原文のママ)として表題だけ掲載したことです。ただ、「錢形平次捕物百話」が刊行されている間にもオール讀物に銭形平次は掲載されていきましたので、実際に「錢形平次捕物百話」に書き下ろされた作品は9編にとどまっています。
 のちに野村胡堂は「胡堂百話」の中の「銭形百話の裏話」で、まだ書いていない13編について、「広告を出したいから題名をきめてくれ」と依頼があったことを書いています。第87話の敵討果てて以降がそれにあたるそうで、この13編は題名が先に決まっていて、のちにそれに合わせた内容が執筆されたことになります。野村胡堂は「楽屋話を披露すると、なるべく融通のきくように、なんとでもなる題名を選んだつもりだ。それでも、十三の中の一つだけは、それに当てはまるような構想が立たず、ひどく苦しんだことを覚えている。」と書いています。「錢形平次捕物百話」の予告にはあっても実際には書かれなかったのは「呪いの針」と「成瀬九十郎」ですが、成瀬九十郎は「忍術指南」の中に登場します。かわりに「お篠姉妹」と「死相の女」が書かれ、「笑い死」は「笑い茸」に変更されています。
 この「錢形平次捕物百話」はかなり売れた本で、戦前の本ですが古書は容易に入手できます。戦後も中央公論社から分離した不破書房(のち雪月花書房)が薄い本に小分けにして出版を続けました。同光社版全集も、最初の百話はこの本を底本にしていると思われますが、かなり手直しされているところが見受けられます。また、嶋中文庫版の最初の百話も、この本を底本としています。

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學藝社「百話以後錢形平次捕物控」(第1巻発行=昭和16年11月20日)
 昭和16年11月から12月にかけて発行された3巻と、昭和17年10月に追加で出版された第4巻からなる作品集で、各巻に9編ずつ、計36編が収録されています。オール讀物昭和14年9月号の「お秀の父」から昭和17年8月号の「鐘五郎の死」までの36編がこれに当ります。発刊当初には全3巻の予定で企画されていた本ですが、昭和17年に続編の第4巻が出版されました。
 この本を発行していた學藝社は東京の銀座にあった出版社で、野村胡堂の池田大助の作品集や、8巻からなる野村胡堂名作選なども出していました。
 太平洋戦争の開戦後は、出版界に対する統制が強化され、物資も国策遂行が目的のものが優先されるようになっていきましたので、大衆文芸の単行本の発行などは難しくなっていったものと思われます。

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杜陵書院「百話以降錢形平次捕物全集」(第1巻発行=昭和22年2月20日)
 杜陵書院の「杜陵」は岩手県盛岡市の別称で、盛岡と東京の本郷に拠点がある出版社でした。野村胡堂は岩手県出身ですので、その関連から出された本かもしれません。杜陵書院は終戦後、昭和25年ごろまで、種々雑多なジャンルの本を盛んに出していて、岩手県出身の宮沢賢治の「注文の多い料理店」があるかと思えば、「カーマスートラ完訳」とか「全国大学一覧」、「毛糸編物全集」など多岐に渡っています。杜陵書院はその後廃業しましたが、杜陵書院のルーツである杜陵印刷はいまでも盛岡市で健在です。
 「百話以降錢形平次捕物全集」は中央公論社の「錢形平次捕物百話」の後を継ぐ全集を目指したような題名となっていて、53編を収録した全7巻が発刊されました。しかし昭和15年から17年にかけてオール讀物に掲載された作品の多くが収録されておらず、実際には百話以降の作品を網羅した「全集」にはなりませんでした。収録作品の分布には偏りが見られますが、學藝社の「百話以後錢形平次捕物控」の存在を意識したものかもしれません。
 ただし、この本は昭和17年以降から戦中期、戦後は昭和23年頃までの作品をかなり集めていることが特徴で、おそらく戦時中の軍の慰問雑誌に発表されたと思われる「娘の役目」と「お此お糸」も収録されています。逆に言えば終戦後間もない昭和22年2月に発行されたこの本に収められていることから見て、「娘の役目」と「お此お糸」は戦時中、文藝讀物が停刊した後に書かれた作品であると想定できるのです。この当時の本には初出誌を記載する習慣も無く、解説もないので、収録作品の情報が何も記録されていないのが残念です。

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春陽堂「現代大衆文学全集2」(昭和25年1月25日発行)
 昭和24年の年末から刊行された全20巻の全集で、第1巻は小島政二郎、この野村胡堂の錢形平次捕物控は第2巻です。江戸川乱歩、吉川英治、獅子文六など20名の作家の作品で構成されています。この本の発行日は次に述べる講談社の「長篇小説名作全集1」と同一の日付です。
 長編の「恋文道中記」や中編の「青い眉」「娘十一人」などを含む21編が収録されていて、長らく初出が不明であった「妹の扱帯」、今でも初出が判っていない「嵐の夜の出来事」も掲載されています。また同じ日に発行された講談社の「長篇小説名作全集2」と重複した作品はひとつもなく、互いに住みわけたような構成になっていますが、少なくとも野村胡堂には両社の企画が見えていたはずですから、重複しないように選択したのかもしれません。

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講談社「長篇小説名作全集1」(昭和25年1月25日発行)
 全21巻の全集で野村胡堂のほか、吉屋信子、大仏次郎、吉川英治、丹羽文雄、横溝正史など21名の作家の作品で構成されています。コンセプトは春陽堂「現代大衆文学全集」と似通ったものです。長篇小説名作と銘打った全集でありながら、しかも、その第1巻であるにもかかわらず、長篇小説は1編も掲載されてはいなくて、「錢形平次捕物控三十六佳選」という副題をつけて36編の短編だけを収録したという奇妙な本です。
 しかし、この本の編集態度には見るべきものがあります。杜陵書院の「百話以降錢形平次捕物全集」に収録されなかった作品を意識的に拾い上げたと思われ、かなり補完的な役割を果しています。この本に掲載されている銭形平次捕物控の作品の掲載順序には重要なルールがあって、前半の12編、小便組貞女、遠眼鏡の殿様、名画紛失、蔵の中の死、浮世絵の女、鍵の穴、棟梁の娘、小判の瓶、若党の恋、艶妻伝、飛ぶ女、風呂場の秘密は、昭和23年から昭和24年にかけての、オール讀物以外の雑誌に掲載された作品を丹念に集めていて、残りの24編はオール讀物に昭和14年から昭和17年にかけて発表された作品が載っています。かならずしも初出の年月順ではありませんが、本の構成には明確な意図が感じられます。この本に「百話以降銭形平次捕物全集」にはない「棟梁の娘」と「風呂場の秘密」が掲載されいるのは、これら2作が戦時中にかかれた作品ではないことを裏付けているように思われます。また、同光社版全集の書誌では初出が「不明」となっている「若党の恋」も収録されています。
 この講談社の「長篇小説名作全集」は定価100円で、「円本」と呼ばれてベストセラーになったようです。昭和26年3月30日の朝日新聞は、税務署への申告所得の結果による文壇人の所得番付の記事で、「6位は講談社の円本の銭形平次でかせいだ野村胡堂」と報じています。

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矢貴書店「野村胡堂捕物名作選集」(昭和25年5月25日再版発行)
 昭和25年に矢貴書店(桃源社の前身)は5巻からなる「野村胡堂捕物名作全集」を出版しました。第1巻は「新作錢形平次捕物帳」、第2巻は「遠山の金さん銀次捕物帳 丹次、吉三捕物帳」、第3巻は「池田大助捕物手柄話」、第4巻は「磯川平助新功名噺」、第5巻が「自撰錢形平次捕物控」です。銭形平次関係では、第1巻に昭和23年6月から昭和25年1月にかけての短編17編と中編1編、第5巻には短編19編が収録されています。野村胡堂の「自撰」と銘打った短編集はおそらく他には無いのではないかと思われます。なお、この当時の全集本には付録のような小冊子がついていることが多いのですが、この「野村胡堂捕物名作全集」には「捕物通信」という題名の4ページからなる小冊子がついています。ところがこの小冊子には毎号野村胡堂が短文を書いていて、「捕物帳談義」とか「捕物小説は楽し」といったよく知られている随筆が含まれています。筆者が購入した「自撰錢形平次捕物控」には、「捕物小説は楽し」が掲載されている「捕物通信第5号」がついていました。

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春陽堂「捕物小説全集」(昭和25年6月30日発行)
 昭和25年に春陽堂は捕物小説全集も刊行しています。野村胡堂「錢形平次捕物控」、佐々木味津三「右門捕物帖」、城昌幸「若さま侍捕物手帖」、横溝正史「人形佐七捕物帖」、久生十蘭「顎十郎評判捕物帳」、岡本綺堂「半七捕物帳」からなる全6巻の構成です。
 野村胡堂の「錢形平次捕物控」では昭和17年から昭和23年にかけて発表された短編26編を集めています。「百話以降錢形平次捕物全集」とは重複している作品が多いのですが、逆に講談社の「長篇小説名作全集」、春陽堂「現代大衆文学全集2」とは重複している作品はありません。またこれらの3冊では収録されずにいた昭和17年の「雛の別れ」や「井戸の茶碗」が掲載されています。

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改造社「新編錢形平次」(昭和26年2月28日発行)
 36編の短編が収録された単行本です。杜陵書院の「百話以降錢形平次捕物全集」の収録作品と共通するものが多いのですが、同光社版全集では初出誌が誤って記載されている「子守唄」と「生き葬い」がこの本で収録されています。また、オール讀物昭和25年5月号に掲載された「歎きの幽沢」から昭和26年2月号の「富士見の塔」までの10編を収録していて、出版間際の最新作を含んでいることが「新編」の表題となっているのでしょう。面白いのは、この本に収録されている「小判の瓶」は、現在では「五つの壺」として知られている作品ですが、オール讀物昭和25年12月号に掲載された当時の原題のままとなっています。その後同名の作品があることがわかったためか、同光社版の全集以降ではこちらの「小判の瓶」は「五つの壺」に改題の上で収録されています。
 なお、「弱い浪人」は、「改造」の昭和26年1月号に掲載された作品ですが、銭形平次捕物控の他の作品の大半は大衆文芸誌などに発表されたものが多いので、政治色の強いイメージがある「改造」はひときわ異彩を放っているのです。しかも改造にはこの1編しか掲載されていないので、以前からこの存在が気になっていたのですが、「新編錢形平次」の発行が昭和26年2月28日であることを考え合わせますと、どうも関連があるようにも思われるのです。出せば売れた銭形平次の短編集を改造社が企画した際に、出版許可を野村胡堂から得るために、言わば義理立てして改造への執筆を依頼したようにも思えるのです。「改造」に載った銭形平次捕物控はこの「弱い浪人」の一作だけですが、野村胡堂の随筆、「胡堂随談」がその後「改造」に連載されました。

春陽文庫「錢形平次捕物控」(第1巻発行=昭和26年1月30日)
 春陽堂は銭形平次捕物控の文庫本の刊行を最初に行なった出版社です。文庫化は早くから手掛けられていて、銭形平次捕物控のオール讀物への連載が始まってから間もない昭和7年から8年にかけて、「日本小説文庫」シリーズのうちの3巻で銭形平次捕物控が出版されています。オール讀物へ掲載された作品が、数編溜まるごとに直ちに文庫化が行われていたことが分かります。また戦時中の昭和17年にも、当時別会社となっていた春陽堂文庫出版が3巻の文庫本を発行しています。戦後も断続的に春陽堂からは銭形平次の文庫本が発行されていたのですが、昭和26年になって新たに全6巻の「銭形平次捕物控」の文庫化が行われました。総計34編の短編と中編が収録されています。内容を見ると第1巻から第3巻は銭形平次捕物控の最初期の21編で、これは日本小説文庫時代の名残と思われます。第4巻は昭和12年から13年にかけての作品、第5巻は昭和23年から24年頃に発表された中編、第6巻は新聞に連載された長めの中編2編を収録しています。なお、第4巻から第6巻の内容は春陽堂「捕物小説全集」に収録されている作品と共通しています。

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角川文庫「銭形平次捕物控」(第1巻発行=昭和32年11月30日)
 オール讀物昭和32年8月号で銭形平次が完結すると、角川文庫、新潮文庫で相次いで全10冊からなる文庫化がおこなわれました。この角川文庫版の「銭形平次捕物控」では第11話の「南蛮秘法箋」から最終話の「鉄砲の音」まで、87編が収録されています。傑作の「雪の精」「花見の仇討」「平次屠蘇機嫌」「子守唄」「小便組貞女」などが収録されていて、傑作選として編集されたものであることがうかがわれます。野村胡堂が勤めていた報知新聞社の後輩で、捕物作家クラブの会長にも就任した田井真孫氏が解説を執筆しています。おそらく87話の選定も田井真孫氏が関わったのではないかと考えています。定番とも言える傑作選のためか、この文庫本はその後も順調に版を重ねました。写真は昭和43年に発行された第15版の第3巻です。

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新潮文庫「珠玉百選銭形平次捕物控」(第1巻発行=昭和34年10月20日)
 角川文庫版の「銭形平次捕物控」の発刊からおよそ2年経った昭和34年10月に、新潮社は新潮文庫で「珠玉百選銭形平次捕物控」の刊行を始めました。短編90編と中編10編が収録されています。角川文庫の掲載作品とは重複がありません。解説はやはり田井真孫氏が書いていて、100話の選考にも関与していたものと思われます。ただ、先に角川文庫で87話が収録されていますから、その残りの296編の中から100話が選ばれたわけで、言葉は悪いですが、残りの中からの「珠玉百選」というのは、「どうなのかなあ?」という印象は受けます。それを補うかのように田井真孫氏は新潮文庫の解説の中で「三百八十三篇中の百篇ではあるが、銭形平次捕物控の神髄は、この十冊の中に尽きていると思う」と書いていますが…。


 昭和34年ごろからテレビは本格的な普及期に入りました。手軽な娯楽、言い換えれば「暇つぶし」の手段は、それまでのラジオ、雑誌からテレビに急速に移行したのです。テレビの普及によって本離れが進み、特に大衆小説は打撃を受けた分野でした。今と比較すると無数に思えるほど多数あった大衆文芸雑誌は次々と姿を消していきました。銭形平次の作品集も、出せば売れた時代は去って、出版社にとっては商業的には成功が望みにくい分野になっていきました。しかし、銭形平次捕物控が国民から忘れ去られたわけではありません。昭和41年5月4日にフジテレビで開始された大川橋蔵主演の「銭形平次」は、フジテレビの看板時代劇となり、以後20年間、昭和61年4月4日まで、実に888回という驚異的な長寿シリーズとなりました。おそらく今後も破られない記録だろうと思われます。
 しかし、そのような出版業界にとっては厳しい世の中になっても、それに果敢に挑戦して銭形平次のシリーズ本を出した出版社がいくつかありました。このあとは、それらの本を採り上げていきたいと思います。

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青樹社「新選銭形平次捕物控百話」(第1巻発行=昭和39年4月20日)
 題名の通り100話を収録した全10巻の作品集です。100話の選定は昭和16年以降に発表された作品で占められていて、初期の作品は含まれていません。この本の凄いところは旧字旧かなで表記されていることです。昭和39年といえば、前回の東京オリンピックが開催された1964年です。さすがに旧字旧かなは世間からも出版物からも姿を消していたからです。そのことについて青樹社の発行人の土井勇氏は「百話出版にあたって」という文章を掲載されていて、「百話を出すに当って新旧仮名使いのいずれを採るかは多方面に種々な主張も出ましたが、舞台を江戸時代においた作者の意図と、作品の忠実な再現に多大の意義を持つ建前から、原文のままを採ることにいたしました。数百篇の多数にのぼる作品の中から、特に百話を選んだ意味からいっても、原文のままに再現する事は銭形平次愛読者にとってきわめて重要なこころみだと考えたからです。」と記されています。何という気骨ある文章でしょう。敢えて売りにくい旧字旧かなを選んだ編集者の気概に心を打たれます。

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双葉社「双葉新書-銭形平次捕物控シリーズ」(第1巻発行=昭和40年2月1日)
 昭和20年代には大衆文芸の「娯楽雑誌」を出し、その後は「週刊大衆」やルパン3世が連載された「漫画アクション」の出版社として知られています。「双葉新書-銭形平次捕物控シリーズ」は昭和40年2月1日より、毎月1冊のペースで7月1日まで6冊が刊行されました。47話の短編と中編が収録されています。新書といっても今のノンフィクションを扱う新書版とは異なり、カバーがかかったペーパバックの廉価本です。この当時には光文社のカッパ・ノベルスなど、新書サイズのシリーズがさかんに出版されていました。「万両息子」「女御用聞き」「死の踊り子」など、傑作選ではあまり採り上げられていない作品がいくつか収録されています。

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河出書房「カラー版国民の文学6-野村胡堂銭形平次捕物控」(昭和43年2月25日発行)
 中里介山「大菩薩峠」から始まり、大佛次郎「赤穂浪士」、林不忘「丹下左膳」、山本周五郎「樅の木は残った」、山岡荘八「坂本龍馬」、南條範夫「月影兵庫」、司馬遼太郎「新選組血風録」など全26巻、時代小説を主とした全集でした。金色の背の箱に入った厚手の26冊が書店に並んでいるのはとても目に付き、このカラー版国民の文学から時代小説にはまった人も多かったことでしょう。既に豪華本による全集物の時代は過ぎつつあったのですが、河出書房は「カラー版日本文学全集」なども出していました。
 この銭形平次捕物控に収録されているのは短編と中編の21編です。尾崎秀樹氏による解説や、大衆文学研究会編の野村胡堂年譜なども掲載されているきちんとした作りの本です。ただ大衆文学研究会による銭形平次の書誌は、河出書房版全集以上に誤りが多く、大衆文学研究会の名声を貶めるものでしかないことは残念です。

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桃源社「長編銭形平次捕物控」(怪盗系図=昭和46年2月27日発行)
 同光社と河出書房の全集を除けば、多くのシリーズ本が出版されてきた中で、銭形平次捕物控の長編は、ほぼ常に除け者にされてきたと言ってもよいでしょう。やはり作品集は、それに収録されている作品が多いほうが「お得感」がありますから、短編主体になりがちになるのはやむをえないところです。
 河出書房版全集の発行から約15年間も放置されて眠ってきた銭形平次の長編に目をつけて、桃源社が長編だけをペーパーバックで単行本化しようと試みたのがこのシリーズです。桃源社は矢貴書店の流れを汲む出版社であることも関係しているのかもしれません。
 「長編銭形平次捕物控」として最初に発行されたのは「怪盗系図」で、「幽霊大名」、「地獄の門」と続いて刊行されました。いかにも「すき間商法」なのですが、敢えて銭形平次の長編だけを手掛けたのは、いささか蛮勇の感じが否めません。それでも、滅多に刊行されない銭形平次の長編だけに、それなりに売れたようで、2年間にわたって9冊が刊行されました。長編と中編が14編収録されています。しかし桃源社の試み以降は、またどの出版社も長編には取り組まないまま、40年以上が過ぎてしまったのです。
 「銭形平次といえば短編」と思っている人が多いでしょうし、多数の作品を読んでいる平次ファンでも「やはり短編が良い」と言う人がいるのですが、長編も決して捨てたものではありません。「娘変相図」などはなかなかの傑作だと思います。

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富士見書房「時代小説文庫-銭形平次捕物控」(第1巻発行=昭和56年7月20日)
 富士見書房の「銭形平次捕物控」は全10巻で、時代小説文庫の中の10冊として刊行されました。87編が収録されています。角川文庫の銭形平次捕物控と見比べると、収録作品も同じで、収録している巻数も同じであることが分かります。さらに各巻の中身を見比べると、作品の掲載順序も同じ、段組も同じ、活字も同じでした。つまり時代小説文庫の10巻は、角川文庫のコピーであるわけです。その種を明かすと、富士見書房は角川書店の子会社として設立された会社で、時代小説や官能小説などを扱いました。ですから角川書店が持っていた銭形平次捕物控の紙型を使って本を再版することができたわけです。ただし、第1巻の巻末にある解説は角川文庫の田井真孫氏の文章から武蔵野次郎氏が執筆したものに差し替えられています。

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潮出版社「銭形平次捕物控傑作選」(3巻ともに1992年12月15日発行)
 時代が平成に入ってから、潮出版社が発行した傑作選です。「七人の花嫁」「橋の上の女」「鬼の面」を表題とした3冊で構成され、21編が収録されています。四六判の単行本で、蓮田やすひろ氏によるとても美しい装丁が印象に残る本です。各巻1200円ですので合計すると3600円、物価水準がほとんど変化しなかった平成に入ってからの20数年でしたが、さすがに25年も経つと通貨の価値は変化していますから、今なら3冊で5000円程度には相当するものと思います。改めて考えてみると、結構凄いことのような気がします。文庫ならいざ知らず、単行本で傑作選が刊行されたのも特異ですし、総額も決して安くはないので、銭形平次のよほど熱烈なファンでもないと手が出せなかったのではないでしょうか。また版元が潮出版社というのも意外な感じがします。

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嶋中文庫「銭形平次捕物控」(第1巻発行=2004年5月20日)
 全15巻、全383編の銭形平次捕物控のうち、はじめの150編を収録しています。最初の10巻、100編は中央公論社「錢形平次捕物百話」を底本としており旧字旧かなを現代かな遣いに改めています。また掲載順序や構成も「錢形平次捕物百話」とは異なっています。第11巻から第15巻は河出書房版全集を底本としていて、こちらは河出書房版と同じ掲載順序となっています。それにしても、出版界の常識から見れば途方もないとも思えるような大変な取り組みでした。
 この本は、非常にていねいな本作りが行なわれています。単に新かな遣いに改めただけではなく、「暫く」、「成程」、「儘」なども平かなに開かれていて、大きめの活字が使われているので読みやすいです。さらに銭形平次が執筆された頃は、現代とは環境がまったく異なるので、身体や身分、障害などに関する差別的表現がかなり目立つのですが、嶋中文庫版ではそうした語句を、言い換えたり、影響の少ない範囲で割愛したりと、細かな配慮を行なっているのです。
 嶋中書店がどこまで銭形平次捕物控の刊行を続けるつもりであったのかは分かりませんが、15巻が2005年9月20日に出て、ひとまず完結したようです。それから1年余り経った2007年1月に同社は廃業してしまいました。廃業の理由は「売上げ悪化により、これ以上続けても立ち行かないため」ということでした。
 少なくとも筆者が所有している銭形平次捕物控の15巻はいずれも初版で、刷り増された気配はありません。残念ながらやはり銭形平次捕物控の文庫本刊行を続けたことは無謀な試みであったように思えます。廃業に伴って書店に並んでいた本は回収されましたが、この時に回収された本が新古本市場に流れたために、現在でも真新しい古本が購入できます。

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文春文庫「銭形平次捕物控傑作選」(第1巻発行=2014年5月10日)
 3冊で構成され、24編の短編が収録されています。2018年1月現在、新刊書で購入できる唯一の「銭形平次捕物控」の選集(*)であるというだけでも、本欄で採り上げる価値があるのですが、第3巻の巻末に掲載されている鈴木文彦氏による解説を読むと、この本がとても貴重なものであることがわかります。
 鈴木文彦氏は元文藝春秋社員でオール讀物の編集部にも在籍されていた方です。鈴木文彦氏の一文によれば、銭形平次383編のうち275編(*)はオール讀物に掲載されたものであるにもかかわらず、文藝春秋社は銭形平次の本を1冊も出してこなかったとのことです。おそらくその思いから、鈴木氏は自ら編集に手を挙げ、鈴木氏が文藝春秋社を動かし、文春文庫40周年記念事業記念出版の企画にも結びついたのでしょう。
 この本の際立った特色のひとつに、語句注釈があります。嶋中文庫ではかな遣いについてはかなり努力をはらっていますが、何しろ書かれた時代が今とは異なるので、使われている用語が、筆者のような年配者でも分からない場合が多々あるのです。硫黄附木とか公事師、羅宇から、果ては帝銀事件に至るまで、様々な用語に対して説明が加えられています。これも鈴木文彦氏の提案によるものとのことで、その本作りに対する情熱には頭が下がるのです。
 また、鈴木氏は解説の中で「『作品一覧』の初出欄に『掲載誌不明』の記載が残ってしまったのは悔やまれてならない。」と書かれています。筆者はとても強いインパクトを受けたお言葉です。鈴木氏の無念さが犇々と伝わってくるような感じがします。残念ながら今回のPDF版の刊行に際して行なった調査でも、結局「掲載誌不明」は残ってしまいましたが、いくぶんかは解決できたことをうれしく思っています。
(補注:2018年1月時点では既に品切れ、取寄せ不可となっている書店も散見されるようになっています。なお、オール讀物への掲載回数は273回、そのうち「三つの死」は昭和24年1~3月号に連載されていますので、作品数は271編です。)


 最初に銭形平次捕物控の全集発行に取り組んだ同光社磯部書房、次に全集を出した河出書房、近年になって網羅的に文庫化を行なった嶋中書店は、いずれも倒産、あるいは廃業の憂き目にあっています。各社の倒産、廃業の理由は必ずしも銭形平次捕物控の刊行のためではないようですが、それでもこれはかなり気になるジンクスではあります。銭形倶楽部の電子書籍版全集の刊行も、未完の状態で挫折しないよう、こころして参りたいと考えています。

(注記)本欄に掲載した書籍の写真は、すべて筆者の蔵書を撮影したものです。あくまでも本のイメージを掴んでいただくための参考として掲載いたしました。昭和26年の春陽文庫は入手しておりませんので写真はありません。

2018年1月 結城宏(銭形倶楽部主宰)


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